封印した記憶
◆ アンクルトムズ・ケビンの幽霊
池永 陽 著
駅裏のおでん屋で酒を飲み、酔った帰り道にギター弾き語りの歌が聞こえてくる。風がさらさら吹きぬけて/生れたばかりの子供の手、と始まるその歌の「八月二十二日を私は忘れない」という歌詞が酔った頭の片隅にこびりつく。物語のキーワードともなるひと言、いわば物語のドラマティックな展開をうながす種となる言葉なのだ。歌声を耳にとめた主人公にその意味はわからないが、明治四三(1910)年八月二二日の「日韓併合」を指している。
本書の冒頭シーンである。主人公の西原章之は四五歳の鋳物職人。岐阜県郡上八幡のマンガン鉱山で育ち中学を卒業して集団就職で鋳物工場の藤田鋳工に入った。妻の邦子はグラフィックデザイナーで、あるとき「溶けた鉄の色が見たいんです」と工場に現れた。いまは仲間と小さなデザイン事務所をやっている。ひとり息子の直樹は芝居をやりたいと家を出た。邦子も直樹も自分の世界に入ってしまい、章之はつねに奇妙な孤独感を強いられる。物語の基調音はここから奏でられていく。弾き語りの路上芸人はフウコ。二〇歳位の朝鮮人で、三人のタイ人と同居していることがのちに知らされる。
三人のタイ人は章之がいる藤田鋳工で働いており、章之は時々ビールや肉などを持ち込んで彼らのアパートを訪ねる。で、ある日、そこにフウコがいたのだ。タイに帰ったら鋳物師になりたいというリーダー格、チャヤンと気が合うらしい。
ときは五月。藤田鋳工は一〇日あまり後に給料日を迎える。社長の藤田は章之に、給料日がくる前に入管に電話しろと命じていた。不法残留のタイ人三人を「強制送還させて未払い分の給料を帳消しにしようとしている」のであった。
従業員募集の貼り紙を見たチャヤンたちが工場にきてから一年ほど経つ。が、給料が真っ当に払われたのは「最初の二ヶ月だけ」だった。あとは半分未払いのままで入管への密告が企てられている。「外国人労働者の代りなんぞ掃いて捨てるほどいる」というわけだ。ここにもドラマを盛り上げる種がひとつ埋め込まれている。後段のクライマックスで発火する火種である。
五月の明るい空の下にあって、章之の心は晴れることがない。本書の特長は、こうした章之の鬱屈感を、日常性のひだを通して淡々と描いていくところにある。たとえば、夫妻の「収入が逆転」した後の状態を告げるこういう描写。「私の神経は邦子の言動に異常に敏感になり、邦子の言葉の端々にワンランク下の人間に接するような見下したにおいを嗅ぎとるようになった」。
家庭の問題、職場の問題、チャヤンたちタイ人労働者の問題。ひとりの中年男が生きるためにはいくつもの問題を引き受けなければならず、この小説はそのすべてを描く。
何かの折りにフウコがつぶやいた「北に帰るわ」という言葉が、章之に“封印した記憶”を掘り起こさせる。故郷のマンガン鉱に、つてを頼って朝鮮人の母と娘が働きに来たのだ。娘のチェ・スーイン(崔秀仁)は章之と同じ中学生。切れ長の目が「観音様のように涼しげで柔らか」だった。母子は、猟師の避難小屋のようなところに住んだ。鉱山の幼なじみはそこを「あれはアンクルトムの小屋や。黒人奴隷が住んどったアンクルトムの小屋や」といった。
つらい日々が続き、結局スーイン母子は北へ帰ってしまう……。
後半、物語はこの小屋を目指してまっしぐらにすすむ。
章之は、「何もかも放り投げて、それでもやらなければいけないことはあるのだ」と肝に銘じ、スーインが暮らした小屋に向かう。あえて詳述を避けるが、やがて読者は、章之が「土間に突っぷして泣いた」という描写に出会う。そして、中年男のあられもない号泣がもつかけがえのない重さに納得し、感動する。(角川書店 本体1300円+税) <週刊金曜日 2003.06.>
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