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2009年8月 8日 (土)

山の空気がもつ風味

 かつてぼくは、大いなる「山派」であった。

 何がいいかって、やはり山ならではの澄んだ空気だ。いや、山といっても登山する山に限った話ではない。東京近郊なら箱根とか信州といった高地のことで、そういう場所ではいつも澄みわたった空気を満喫することであった。

 で、いま書きたいことは、この空気の風合いが子どもの頃の夏の匂いに結ばれることなのだ。

 小学校高学年の夏休み、ある朝ふと、朝の空気のなかにそれまでに感じたことのないすてきな匂いを感じとったのだ。そこには少し湿り気があり、これから気温が上がる直前の涼やかさがあり、そして新鮮な空気だけがもつ自然な、甘い花の香りのような、何ともいえない風味がこもっている。

 子どもの頃の夏の、ほんの一瞬の体験だったと思うが、それからしばらく経って40歳前後になった頃、そのときと同じような空気を味わうことがあった。

 場所は箱根で、朝早く外に出てみたら、いまにも雨が降り出しそうな曇り空だった。遠い峰には真っ白な雲がかかり、視線を下げると目に見える限りの山のあちこちに小さな雲のかたまりがある。

 あれっ? と思ったのは屋内に戻ろうと振り向いた瞬間だった。空気に匂いがある、味がある。都会にいては感じとれない自然の風合いだ。

 そこで、澄んだ空気を思い切り吸い込む。

 すると、あ、これ、知ってるという記憶の渦が巻き起こった。

 夏のエッセンスをみっしりとまとめたような空気の風味。子どもの頃に感動したあの夏休みの匂いと甘みではないか。

 木々の葉っぱが思いっきり開き、酸素を放出しているのだ。
 山はいいなと本気で思った。

 そりゃ潮の香りの海だって嫌いではなかったが、山の空気の風味にはかなわないのだった。

 ところがぼくは、その後COPDというやっかいな病気に罹ってしまい、坂道や階段を上ると息が切れて動けなくなるようになった。山に行くにはどうしても坂道や階段がつきまとう。

 冒頭、過去の話として「山派」を持ち出したのは、それ以来、山に行こうにも呼吸が苦しくなって行かれないからだ。

 残念なことではあるが、仕方がない。ただ「あなたは海派か山派か」と問われるなら、ほとんど反射的に澄んだ空気を連想し、すぐに「山派」と答えるのだ。

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