映画『海底2万哩』のこと
映画監督リチャード・フライシャーの死去を3月27日の夕刊で知った。89歳。ロサンジェルスの病院で、とあるから病気か、あるいは老衰なのかも知れない。詳しいことは何も書いてなかった。
リチャード・フライシャー作品といえば『ミクロの決死圏』(1966年)が有名。一気に評判を高めた。人気を集めたのは『ドリトル先生 不思議な旅』(67年)や『トラ・トラ・トラ!』(70年)だが、ぼくは『海底2万哩』(54年)が忘れられない。いや、ちょいとばかりするっと書きすぎた。その“忘れられなさ”はいささか度を超えたものなのだ。
そうか、1954年の製作なのか。日本での封切りは翌55年だった。ぼくは中学1年生で、高輪の家の一角に初めて自分の机を持ったことをよく覚えている。買って貰ったわけではない。父親の机を貰ったのはもう少し後のことだったから、たぶんあの机は父の知り合いから払い下げられたものだったのだろう。で、机の上には、当時やっと出回り始めた蛍光灯スタンドが乗っていた。これは父親が使っていたものだ。ONとOFFの二つのスウィッチがあるだけの無骨な格好をした卓上スタンドであった。
冬だった。ぼくはその蛍光灯の明かりの下で『海底2万哩(20,000 LEAGUES UNDER THE SEA)』の広告を見たのだ。いまはこの映画のタイトルを『海底2万マイル』としているが、封切り時には間違いなく『海底2万哩(マイル)』と漢字にふりがな付きで、カラー印刷の広告には「シネマスコープ」という文字があった。そうだ、あのころぼくは、もらい始めた小遣いで映画雑誌を買ったりしていたのだ。シネスコ第1作は『聖衣』であると知ってはいたが観る機会がなく、いったいシネマスコープとは何だろうと胸を高鳴らせ、明日は観に行くという夜にはほとんど眠れなくなったものだった。
映画館に自分1人で入ったのは初めてだった。坂を下りて品川駅から電車に乗ることには慣れていた。有楽町で降り、なつかしい有楽座に向かう。美しい建物だった。内部にはいっそう目を見張る。ふかふかの座席、どっしりした緞帳、高い天井。13歳になって数ヶ月の中学生には、もうそれだけで刺激的なのだった。
さらにさらに、スクリーンがすごい。横にでかい。そのころぼくは何しろ生意気な年ごろで、友だちをつかまえては「スタンダード・サイズのスクリーンは3対4の比率でさ、シネマスコープは横幅が広く縦の倍以上、1対2.3だか4だかなんだって!」などと話していたのである。実際には見たこともないのに。
そこに映画が映る。潜水調査艦ノーチラス号が白波を立てて進んでいく。ネモ艦長を演じるのがジェームズ・メイソンで、いやぁ何とも、じつに人間味のある艦長ぶりだった。やがて怪物登場。バカでかいイカだな、あれは。くねくねとよく動く足が恐怖の的。ノーチラス号は逃げなければならず潜水を急ぐ。急いだために、うわっ、ネモ艦長の右手(だったな、たしか)親指が閉めかかったハッチに挟まれてしまう。すき間からじゃあじゃあ海水が入ってくる。いったん浮上しようとする乗員たちを押しとどめ、ジェームズ・メイソンは自分の指を切れと命ずるのである。親指を切っちゃうなんて! とぼくは全身で興奮していた。
しかし、何よりも興奮させられたのは台詞の日本語訳を書いたスーパーインポーズなのだった。当時、スーパーインポーズは画面下に横書きで出てくるのだが、その一文字の大きさが人の頭ほどもあるではないか。
帰宅後、父親と母親に、最初に話したのがこのスーパーインポーズの大きさだった。話しても話しても飽きたらず、とうとうぼくは、映画ノートを書き始めた。スタッフとキャストと、映画館と、日付と天候と、そして映画の感想を書きつける大切な映画ノート。そこにぼくは、いまでも覚えているが、この映画には女の人が出てこないと書いた。
ところが、もう一度観ると(また有楽座へ出かけて行ったのだ)調査艦は小さな島に立ち寄り、そこの現地人に女性がいるのだった。
映画に関するすべての始まりとはいえないにしても、映画『海底2万哩』は、たしかにぼくを映画の方角へぐいと押し出した作品なのであった。
だからリチャード・フライシャーは、いわばぼくの人生を決めたにも等しい映画監督なのだ。今夕その死を知り、ぼくは大いなる感謝をこめて冥福を祈るのである。 washiroh
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