2006年8月18日 (金)

暑い朝の苛立ち

 8月も半ばを過ぎてから本格的な猛暑となった。今朝の暑さはかなりのもので仕事を始めるときから扇風機を回している。スウィッチを入れながら、八王子にきてからこういうことは滅多にないなと思った。高原にいるような気温なので扇風機をつけるにしても日に何度か、30分ほど回せば事足りてしまうのだ。もはやクーラーなんぞまったく不要。乗った電車が「弱」ではない冷房車だと身体の調子がいささか悪くなった気がするのである。仕事を始める際の定番に冷やした緑茶があるが、これは湯冷ましの水で煎れなければいけない。さっきグラスに一杯入れたらビンが空になったので湯冷ましの入ったヤカンから作ろうとしたら、お湯がまだやや温かかったのでやめた。温かい湯だと茶からカフェインが出てしまい、目によくないのだ。だから水の温度になるまで待ってから煎れる。そうするとカフェインが抑えられるのだと教わった。かたわら、これも定番だが煎れたばかりのコーヒーもおいておく。カフェインを避けるべきなのにコーヒーを飲んではしょうがないではないかとも思うが、これははずせない。医者も日に3杯まではいいだろうといっていた。コーヒーのせいでカフェインの摂取許容量がなくなり、そのために熱い緑茶が飲めないのである。朝食に、今日も8枚切りの食パンをトーストで食べたが、ハムトーストとコーヒーがじつによく合うのである。例によって半端な残りには蜂蜜を塗り、結局3枚食べてしまった。

 仕事にとりかかる前から飲み物をどうするなどということに神経を使ってしまい、くたびれるのも当たり前だ。今日はまず、いつものように『社会ウォッチ』を書いてしまわなければ何もできない。毎週のことながら金曜日は週末分の原稿を3本送る必要があり、落ち着かない。1本目は加藤紘一議員が被った実家焼き討ち事件を題材にしようと思っている。自らの考えをメディアを通して公にするのは政治家ならば当たり前のことなのに、日本は民主主義国として成熟していないからか、加藤議員の考え方を知って気に入らなかった者が山形県鶴岡市大東町にある議員の実家に火をつけたようなのだ。世の中にはいろんな人がいるから面白いのである。いろんな人がいるから社会が前にすすむのである。自らとは異なる考えをもつ人がいるから話し合いが必要となり、議論が成り立つ。話し合いも議論もなしに、ただ気に入らないから暴力的に振る舞うのは卑怯者のやることだ。イスラエルのオルメルト首相なんぞはその最たるもので、強力な爆弾を大量に使って、ひたすら一方的に、レバノンの子どもたちを何百人も殺した。卑劣な行為として歴史に残るだろうが、今度の加藤議員宅全焼事件にしたって同じことだ。朝のラジオ番組で、小澤遼子さんが加藤議員の盟友といわれている小泉首相は火事を気遣う何事かを行ったのかね(?)といった内容の話をしていたが、この件、じっさいはどうなのだろうか。もっともなぁ、小泉首相って人はジョージ・ブッシュ大統領と手に手をとるようにして他国破壊を推し進めてきたからなぁ。いきなり得意の居直り戦法に出て、民主主義がどうした、なにごとも心の問題だろとでもいい出しかねない。何とも奇妙な国になってしまったものだよ、日本は。 washiroh

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2006年8月16日 (水)

8枚切り食パン

 何と何と早くも8月が半ばを過ぎた。あわてるね。朝食のトーストもすばやく喰えるように食パンを6枚切りから8枚切りに替えたよ(笑)。

 昨日、8月15日。日本の終戦の日。韓国北朝鮮では植民地状態からの開放の日。

 今年は国際情勢がキナ臭い中での8月15日となった。アメリカ政府のイラク侵攻占領政策はいよいよ失敗の色が濃く、イスラエルによるレバノン攻撃が子どもを殺しまくるという愚かな結果しか生まないことがはっきりし、国連安保理はアメリカ政府の邪魔だてのためにぐずぐずと動かなかったがようやく停戦を決議。もっともアメリカ政府はイスラエル寄りの案でないと拒否するとわめいていたらしく結果は妙にイスラエル有利な条項が並ぶ。

 とまれヒズボラも保留付きでこれを呑んだ。レバノンの人々はひとまず破壊され尽くした故郷に戻り始めたと伝えられる。そういう中でぼくは仕事を続けているのだが、なにしろ両手の筋挫滅症状がよくならず、おとといあたりからは手首全体が猛烈に痛い。目の前に横たわるキィボードが憎らしくなってくるほどなのだ。

 昨日配信の『社会ウォッチ』に以下の文章を書いた。掲載誌を購読していない人にも読んで欲しいのでそのまま引く。

================================================== 53万1000部発行 
■ オリーブ!ニュース               2006/08/16  02265号 ■
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|■01.今日の社会ウォッチ <巖谷鷲郎>
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(2189.) 8月15日に思うこと

 いつごろだったか、終戦といわず敗戦というべきだという議論があった。
 ぼくにとってはどちらでもよく、毎年8月15日がくると、ただひたすら“多くの
人がよろこんだ日”と受け止める。
 戦争の終わりがどんなにうれしくありがたいものかについて、ぼくは想像しかでき
ない。しかし戦争なんぞ実感する必要はまったくない。したがって戦争が終わるよろ
こびについても想像するだけで充分ではないか。

 「平和憲法の下には戦死者が埋まっている」。
 そういったのは詩人の宗左近さんであったと、毎日新聞の小国綾子記者が書いてい
る(7月27日付毎日新聞夕刊、URL下記)。
 『詩人逝く、この喪失感』と題されたこの文章は素直でしなやかで、書き手のきち
んとした姿勢が窺われるものだった。先日、8月15日を前にあらためて読み、あら
ためて感銘を受けた。
 書き出しがすごい。「詩人が死んでいく。2月には茨木のり子さん(79)、6月
には宗左近さん(87)。戦争体験を自分の言葉で書きつづった詩人たちの相次ぐ死
に、こみ上げてくるこの喪失感は何なのか」。
 ぼくにとって何度読んでも胸にずんとくる書き出しなのだ。小国記者は次いで、東
海道線の根府川(ねぶかわ)駅(神奈川県小田原市)に降り立つ。「15歳で開戦、
19歳で敗戦を迎えた茨木さん」の詩「根府川の海」に描かれた場で“こみ上げてく
る喪失感”と向き合おうと思ったからだ。
 “まず、行く。見る。そして考える”という生き方をしようとぼくも願ってきた。
 そしていま、小国記者の文章を読みながら“でもなぁ、相変わらず怠けてる”と思
うのである。根府川駅のホームから太平洋を見つめる記者はこう書いている。
 「戦争と隣り合わせの青春。この海にどんな思いを閉じこめたのか」。

 ところで、たしかに“こみ上げてくるもの”が妙に気になる夏である。
 もっとも気になるのが“気に入らない相手は排斥する”という考え方が蔓延してい
ること。夜遅い電車に乗ると、混み合った車内に不穏な気配が満ちている場合が少な
くなく、その延長に、気に入らない相手を殴るだの蹴るだの、あげくの果てには刺し
殺すだのといった“排斥の思想”を感じることがある。
 これこそは“民主主義と相反する考え方”で、米国政府のアフガニスタン攻撃とイ
ラク侵略が「テロとの戦争」という呼び方で世界中に植え付けた考え方だ。
 現状を見れば分かる通り“気に入らない相手は排斥する”という暴力思考はあきれ
るほど愚かしいのだが同時にとてつもなく恐ろしいやり口でもある。ジョージ・ブッ
シュ大統領にベッタリの小泉純一郎首相も民主主義を口にするが、自ら抱えた大きな
矛盾に気づいているのだろうか?

 8月15日、ぼくは、先日亡くなった鶴見和子さんの“みなさん、時代の動きに対
して暢気(のんき)すぎますよ”ということばが思い出されてならないのである。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20060727dde012040064000c.html

 <巖谷鷲郎>

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 ここに『社会ウォッチ』を引用するのは初めてだが殊に理由はなく、ただ考えなかっただけ。では急に今日、引いておこうと思い立ったのは、じつはこのブログをサボりすぎていることを反省したからだ。あることに背中を押され、毎日書こうと思い立ってからすでに3日ほど経っている。気がつけば2006年8月も16日となっており、まずは15日のことから再開しようと思い立ったわけである。

 別に無理をする気はないけれど、せっかくのブログ、できる限りしっかりやってゆきますから、どうぞよろしく。 <鷲>

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2006年5月16日 (火)

「小学校での英語教育の義務化」について

 中央教育審議会が「小学校での英語教育の義務化」を計画しているという。

 国民はまたも文科相・文科省による愚かな行政に振り回されるわけで、何ともバカバカしいことである。しかも驚くべきは、この中教審発表に対し少なからぬ人々が“賛意”を示していると伝えられるという事実。それらの人々はいったい週に何時間の授業時間が設けられれば“英語教育”が可能とお考えなのであろうか。そして、その人々は中教審が小学校で一週間に何時間、英語の時間を設けようとしているかをご存知なのであろうか。ぼくは何時間が予定されているか知らない。知らないから、中教審の発表はバカバカしいとしか思えない。

 英語を、たとえば週に一回、1時間だけやったところで何にもならないよね。英語教育は習慣的に話したり書いたりしなければ身につかないのは常識。しかも小学生だもの、英語の単語なんぞは普段の生活の中で使われない限りとっとと忘れてしまうのだ。いや、片っ端から忘れるのは小学生とは限らないか。ま、いまはバカバカしい中教審発表に沿って書くことにするから小学生に限る話になるが、少なくとも1日3時間ほど、毎日やらなきゃ英語教育なんぞができるわけがないだろう。もしもそうするつもりなら、つまり、もしも毎週毎日最低3時間を英語に充てるならぼくも中教審に賛成してもいいと思えるわけだ。が、その場合、他の教科に充てる時間がなくなるね。

 で、そこはどうするのだ、中教審? 何も考えていないから答えようもないのだろうが、そんな中教審をみていると、いやしくも教育行政にたずさわろうという連中が顔を並べて、子どもを苦しめる算段に夢中になる図しか見えてこないぜ。

 愚かしい考えはさっさと捨て、子どもの教育としてタメになることを考えなさい。そうでないと、中教審なんて単なる税金泥棒グループになってしまうよ。 washiroh

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